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2008年02月26日

●アーカイヴ1『ファザーファッカー』

荒戸源治郎監督 1時間30分 6月17日から銀座テアトル西友ほか各劇場で公開

 例えば『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオーのような〝不運な子供″の一人に、内田春菊の自伝的小説を原作とする『ファザーファッカー』の静子(中村麻美)を数えてもいいだろう。つまり映画を活気づける彼らのアクションを心理的に保証するのが、強権的か偽善的な親と子の距離や葛藤なのだが、一方でパリという街は、J=P・レオ一にとって両親に、そして映画に庇護された空間でもあった。だからそこから逃亡する彼が最後に見せたあの忘れがたい表情には、自由と不自由とが交錯する存在の痛みといったものが刻みつけられていたのだが、『ファザーファッカー』では、長崎に設定されたその空間は、少女の見る南国的な鮮やかな色彩の幻想によって特徴づけられている。
 物語は刺激的なタイトルに反して、実父の家出から養父(秋山道男)の出現、心の弱い母親(桃井かおり)、ボーイフレンドとの交渉、そして妊娠と堕胎といった日常が淡々と綴られる。養父による性的虐待の場面も、直接の性描写は避けられ、やがて少女は「苛酷な現実と危うい夢のラビリンスを駆け抜けて、未来に向かって脱出する」。鈴木清順ばりの超現実的なセットや、なにやらブニュエルを連想させなくもない台詞(お前のここを、縫いつけてやる)が至るところに散見されるが、それにしても「ハードメルヘン」と銘打たれた、これら一切のほどのよさは、いったい何なのか。
 夢と現実が入り混じった叙情的な幻想は、絵解きをする前に気恥ずかしいほど凡庸で説明的だ。ビザール(異様)であるはずの養父まで、その一挙一動が意図と説明を背負って、秋山道男の持ち味が充分生かされていないように思う。“とんでもないこと″をあっけないほど日常的に語る荒戸監督は、小津安二郎に似た距離と抑制の人なのではなく、むしろ「わかり易さ」というコンセプトで映画を梱包し、現代に相応しい「商品」に徹しようとしている。だが「脱出」を爽やかで美しいというのは、あまりに抽象的な嘘でしかあるまい。最後に坂道を去っていく少女を打っていたのは、かつてJ=P・レオーの頬に貼りついていた、ひりひりするような存在の痛みとしての風であるはずだが、そんなものを現在の邦画に求めるのは、無いものねだりに過ぎないというべきだろうか。子供だましの嘘と映像には、いい加減にうんざりしているのだ。
(「ミュージック・マガジン」1995年7月号)

(現在の付記)
これからしばらく、以前ボクが雑誌等に発表した原稿をいくつかUPしていこうと思います。最近、あんまりここに書いてなかったので、宣伝(恥さらし?)も兼ねて一石二鳥かなと。なんといっても誌面をOCRでスキャンするだけなのでラクチンだし。
でまあ、その第一弾が「ミュージック・マガジン」95年7月号「MINI REVIEWS」掲載の『ファザーファッカー』。13年前、ボクが初めて商業誌に書いた原稿。ご覧の通りそうとう生硬な文章で、筆者はあきらかに緊張しまくりです。たったこんだけの短い原稿に、編集部のKさんには5~6回ダメだしされて書き直した記憶が・・・。しかしこの時Kさんに教育してもらったことが現在の自分の基礎になっているので、ホント感謝。
なお、同欄にはアン・リー『恋人たちの食卓』のレビュー(ライターは真保みゆきさん)と並べて掲載していただきました。