« アーカイヴ2『水の中の八月』 | メイン | お、考えたね^^ »

2008年02月28日

●アーカイヴ3『リトアニアへの旅の追憶』

ジョナス・メカス監督 1時間27分 8月30日からシネ・ヴィヴァン六本木で公開

 この映画は、家族や友人の日々の生活を16ミリフィルムに収めた、いわゆる「個人映画」というジャンルに属する。第二次世界大戦中、ナチスによって故郷リトアニアを追われ、ドイツの強制収容所を体験し、アメリカに難民として亡命した一青年(ジョナス・メカス)が、27年ぶりに故郷で母や家族、友人に再会するという筋立ての、歴史の証言としての貴重さ。だが疑問もある。ビデオ・カメラが一般家庭に普及している現在、わざわざ35ミリの商業映画として公開する意義があるのか? メカスが母親と再会を果たすリトアニアの素朴な農村風景はなるほど美しいが、日記的な手法で描かれた〝個人的な体験″など、発表された1972年はともかく、戦争もメカスも当時の映画も社会状況も知らない観客にとっては退屈で、押し付けがましいだけではないのか?
 独りよがりな、というのは実は道徳的な批難なのだが、むしろこの映画に感じるのは、音と映像のあらゆる瞬間が過酷なまでに「政治」に刺しつらぬかれているという印象である。登場する無数の有名無名の人々の貌。リトアニアの自然。木いちごという言葉。メカスの家族や友人たちの立ち居振る舞い。家族の離散と再会。彼の母国語ならざる言語によるナレーション。なるほどどれもささやかな〝家族の肖像〟に過ぎないといえばいえる。だがここに立ち現れる抒情は、主観的な感情過多とは正反対の体験なのだと思う。「政治的」とは何もナチスやソ連の政治体制の教科書然とした解説や立場表明ではない(メカスはそんなことに一言も触れない)。それはぎこちなく、遊戯的で、演技=労働から遠く隔たったユートピア的なヴィジョンである。と同時に樹木の葉一枚一枚の震えに至るまで「歴史」に貫き通されているのをくっきりと浮き立たせるメカスの眼差しが、見る者を思考の運動へと促す。強制収容所に佇み、語りかけるメカスのやさしさ。「弟は外を見て回りながら思い出に耽っていたが、その周りを子供達が取り巻いていた。何てへんてこりんな人達なんだろう。こんなところへやって来て、物思いに耽っている、と子供達は思っていただろう。本当に変な外国人達だって。そうだ、走れ、子供達、走るんだ。私もかつてここから走りだした。しかしそれは命をかけた走りだった。そんな風に子供達が命がけで走ったりすることのないように。そう、そうやって走るんだ、子供達」。
 抒情が「政治」から無垢の領域だと信じている子供達(たとえばそれは岩井俊二の『Love Letter』やや是枝裕和の『幻の光』の観客である私達のことだ)にこの映画はどう映るのだろう。安易で独りよがりな感傷に安住するのではなく、人々を思考へ誘う、みずみずしい抒情のありように身をひらくことは、結局は観客の〝つとめ″であると思うのだが。
(「ミュージック・マガジン」1996年9月号)

(現在の後記)
どうやらこの頃のボクのモチベーションは、何かに対する「怒り」のようなものだったらしい。このレビューではたまたまメカスを絶賛(!?)してるけど、「怒り」の対象はむしろその日ガラガラだった試写室の印象(無視するだけでなく、ボク以外のただ一人の観客も上映中グーグー寝ていた)に対して向けられていた。なぜこの連中はこの映画の美しさが理解できんのだ? たぶんそこには新古今以来の日本的な「美学」に対する違和感が根っこにあったのだが、こうした問題についてボクが本気で考えさせられるきっかけにもなったと思う。後日、たまたま別の映画を観に六本木のシネヴィヴァンに行って開場まで映画のチラシを漁っていたら、その中にこの映画のチラシも置いてあって、しかもそこに自分の署名と短い評が掲載されていて驚愕! たぶんボクのような無名のライター以外、まともに触れたコメントが得られなかったのではなかろうか。
なお、同欄にはテイム・ロビンス『デッドマン・ウォーキング』(野崎六助氏)、スパイク・リー『ガール6』(野村梓氏)のレビューと並んで掲載されました。