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2008年02月27日

●アーカイヴ2『水の中の八月』

石井聰亙監督 1時間57分 9月9日から渋谷・パルコスペースパート3で公開

 テーマはネイチャーである。物語は少女が地球を救うのである。これで映画の内容は、九割がた語ったことになる。舞台は博多だが、あまり気にしなくていい。山笠祭りが見られるが、笠松則通のキャメラは相変わらず美しく、まるで観光パンフレットのようである。街は水不足で、「石化病」という奇病がはやっている。人々は突然道端に倒れ込んだりする。だが設定だけで生活感も肉付けもないから、ほとんど危機的な事態には感じられない。この世紀末の世界を救う少女は葉月泉(小嶺麗奈)という。水泳の高飛び込みでは、日本で屈指の選手である。高校の同級生である少年少女たちは、彼女に好意を持ったり、不安な未来をホロスコープで予測したりする。誰もがもちろんピュアでセンシティヴで、お肌のお手入れも行き届いているから、顔にはにきびの跡一つありはしない。ところで泉の姉の洋(戸田菜穂)も含めて、彼女たちの髪がみんな短いのはどうしてだろうか。登場人物は互いに鏡に映し出したようにそっくりなのだ。
 だが彼らはキャラクターではなくせいぜいナレーターに過ぎないと考えるべきだ。それぞれがやたらに長い台詞を喋る。その口調は会話でなくモノローグ、あるいは宇宙と生命に関する説教である。高飛び込みに失敗した泉は生死の境をさ迷い、奇跡的に回復する。泉は水や森や石の声を聴くようになる。石や樹木に耳を当てても、聞こえるのは自分の心臓の鼓動ばかりのはずだ。彼女は高飛び込みをやめたのだろうが、それに関する言及もない。石井聰亙監督自身が脚本も執筆しているが、物語の自然な展開は放棄されている。モブシーンはあたかも人形の群れが棒立ちしているかのようだ。これを普通、演出力の欠如という。ヴェンダースの『夢の果てまでも』を観た後の深い失望と腹立ちを思い出した。
 泉は最後に人類の危機を救うため、自らを犠牲に供する。すると渇水に喘いでいた街に雨が降り、石化病も癒される。通俗化されたガイア思想や供儀論の有効性を信じるのは当人の勝手だが、地球環境の問題は水こそが病んでいる点に存するのだし、酸性雨が森を枯らしているという常識は最低限踏まえてほしい。水=浄化なる図式を誰が信じるというのか。チープでナイーヴなのは石井聰亙の美質だったと思うが、これは映像うんぬんといった以前の問題だろう。
(「ミュージック・マガジン」1995年9月号)

(現在の後記)
この頃、実際には映画好きなただのシロウトにすぎなかった筆者は、きっと「映画を見て思ったとおりのことを書けばレビューになる」とでも考えていたのだろう。若さというか、ナイーヴというか・・・。まあ「疎外論批判」という意味では、今でも自分の中に共通したモチーフはあるんだけどね。でも正直、もし今時こんな原稿を載せたら、その掲載紙ごと試写会出入り禁止になるんじゃないだろうか? どうせこんなレビュー誰も読んじゃいねえし、と高を括って、よくもまあこんな酷評を書いたもんである。(ところが実際には意外と読まれていた、ということを、のちに『弾丸ライナー』評の時に思い知らされたのだった・・・)
ちなみにティム・バートン『エド・ウッド』のレビュー(大森さわこさん)と並んで掲載されました。