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2007年11月06日

●去年ルノアールで

DVDで初見。面白いというにはビミョーな気がするし、ムダにゴーカな配役ってほどでもないと思うけど、なんというか、今時の若者はいろいろ大変なのだなあ、と妙にしみじみとしたのだった。
ルノアールの店内の同じ客に被害妄想気味の主人公のオトコノコが、その被害妄想に対して妄想で対抗するんだけど、妄想の中ですら負ける、というのが基本パターン、といっていいのだろうか。
しかし古来、夢だの妄想だのといえば、バスター・キートンから諸星あたるを経て碇シンジに至るまで(ま、最後のヒトはビミョーだけど)基本的に願望充足の装置だったハズなのに、この主人公のオトコノコの妄想は、なんでまたこうも防禦的でネガティブな感情で占められているのだろう、と思うのである。
受動的な感情は連帯の基礎にはなりえない、と、こないだもスピノザを引いて小泉義之氏がブログに書いていたけど、しかし今時の若者は「連帯」するかわりに、きっと互いの傷のありかに「共感」しあったり、「癒し」あったりしているのだろう。痛ましいことである。
そういや小泉氏は「89/91年の断絶」を主張していた(連帯から共感へ、ということか?)が、ボクもだいたい90年代半ばくらいからか、自分より少し下の年齢の子たちが事あるごとに「ムカつく」とか口走るのを聴いていて、「この子たちは普段からよっぽど自分たちが世の中から攻撃を受けていると感じているのだなあ」という違和感を持っていたのだった。
(かくゆうボクは典型的なバブル世代なので、世の中とは基本的に幸福でノー天気なものだと信じていた。ちなみにボクよりさらに以前の世代はやたらと怒っていた--ムカつくのとはちょっと違う--けど、「ボクは怒ってないさ。ジョー・ストラマーのポスター剥がれ落ちる」と歌ったアズティック・カメラの歌詞に解放を感じていたのだった)
その意味では「去年ルノアールで」の男の子も(本の帯には「無気力文学の金字塔」と記してあるらしいが)むしろ「無気力」どころか、これは反撃的妄想においてすら敗北して疲れ果てている姿、といった方が正確な気がする。要するに広義の「癒し」ドラマなのである。

ところで。
先週末、つい「アーセナルvsマンU」に触れ損ねてしまったけど、たしかにまあまあ面白いゲームではあったのだけど、2~3年前までの、あたかもヤクザの出入りのごとき気合いと迫力でドツキあっていた両者と比べると、ルーニーもロナウドもセスクも若くて過去の因縁を知らない分、まだまだ互いに探り合いで腰が引けていた気がする。
きっと4月のオールドトラフォードの再戦で、今シーズンの優勝の帰趨がPKとか誤審とか退場とかで決まったりすると、来シーズン以降の対決が異様に盛り上がるようになるだろうから、本当の楽しみはまだまだこれからである。
(こっちはアーセナルのファンとはいえ、じつはルーニーとテベスの不良同士の友情が見てて妙に微笑ましいので、かつての絶頂期の圧倒的に勝負強かったマンUのように憎たらしい感じが、どうしてもまだ湧いてこないのだ)