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2007年07月19日

●「個と組織」

アジアカップ8強決定。韓国やオーストラリアの敗北で荒れた割には、最終的にはけっこうバランスのいい組み合わせに落ち着いてしまった。2002のようなアップセットがなかったのは、結局第3戦でタイとインドネシアに2002韓国的な「確変」(あの大会の韓国は決定率が5割を越えていたと思う)が起きなかったという、要するに開催国の実力不足のためだったのかもしれない。
vsオーストラリアは、もちろん強敵には違いないが、しかしストロングポイントとウィークポイントが意外とはっきりしていて、対策は案外立てやすいのではないかと思う。地の利は明らかに日本にあるわけだし。

先日、アジアカップで久々に代表熱が盛り上がってきたので、5年ぶりくらいに「number」を買ってしまったのだった。
パラパラめくってみると、・・・う~む、相変わらず佐藤俊が書いているのだな(笑)。でも、ボクが全然知らないライターも多い。しかもその原稿を読むと、相変わらず「個と組織」とか書いているし。

ジーコジャパンの時代に、おそらくその前任者を否認する目的でマスコミで多用されたこのフレーズ、理屈としてはあまりにお粗末なので、馬鹿馬鹿しくて論じる気も起こらず放っておいたのだった。
そうした場合、彼らのイメージする「個」とは、たとえば(突飛な比喩だが)「ハケンの品格」の篠原涼子のような存在だったのかもしれない。このTVドラマのヒロインは、「組織」に依存する無能な正社員たちに対して、特別な能力で会社の危機を救うスーパー派遣社員なのである。ナカタヒデや俊輔に仮託されていたのが、このスーパーな能力を有する「個」というファンタジーだった。
とはいえ、もちろん現実の会社組織では、スーパー派遣さん(そんな人間がいると仮定して)が活躍するための「前提」というのが必要で、早い話スーパー派遣さんがものすごく難しい契約をまとめたとしても、その契約に従って製品を増産したり納入したりする工場や流通の現場が余計な苦労しなくてはならない。
オシムはそうした見えない苦労をする彼らのことを「水を運ぶ選手」と表現する。しかしこのリアリズムが日本人に受け入れられるためには、昨年のドイツの惨敗が必要だったのだろう・・・。

しかし、もしかして「個と組織」主義者たちは、この馬鹿げた表現で別のことを言いたかったのかもしれない。つまり「個」という表現で言いたいのは、もしかしてカール・シュミットのいう「例外状態」についてではなかったのか、と。
周知のように、シュミットの「政治神学」は「主権者とは例外状況にかんして決定をくだす者をいう」という一文で始まる。「主権者」とは非常事態において強制的な執行権を発動する国王(大統領)のような存在であるが、サッカーにおけるボールをキープしているプレーヤーは、隠喩的にも実際的にもこの「主権者」に当たるのではないか。90分の試合で一人のプレーヤーがボールに触れている時間は、せいぜい3分前後にすぎないというが、しかしボールキープしているその数分の間のみ、プレーヤーはシュートするかドリブルするかパスするかのすべてを無根拠に決定できるのであり、つまり「個」とはこの「例外状態」においてゲームを決定づけるビッグプレーのできる個人ということである。
逆に言えば「組織」とはボールを保持していない80数分間のプレーヤーのディシプリンを指す。だがそれはテレビには映らないし、多くはテレビを通じて観戦する日本代表のファンにとって「組織」は関知するところではない。
マスメディアを活用した一種の「ボナパルティズム」がはびこっていた小泉政権時代に「個と組織」論が流行ったのは、たぶん偶然ではないのだ。

「例外状況は、神学にとっての奇蹟と類似の意味を持つ」。卓越した個人--たとえばマラドーナとかベッケンバウアーとかペレが「神」とか「皇帝」とか「王様」とか呼ばれることは、こうした意味で理解すべきなのかもしれない(「将軍」プラティニも「ナポレオン」を含意しているので、この系譜に連なる)。
しかし、そこで特異なのがやはりクライフという存在である。「空飛ぶオランダ人」という彼の綽名には、前者たちの「超越」的な隠喩性が一切欠けている。おそらくクライフ=74オランダ代表の「個と組織」論は「例外状態」的なそれとまったく異なる文脈で理解しなくてはならないのだ。
もちろん、どうやら「トータルフットボール」の現代的再現をひそかに目指しているのかもしれないオシムジャパンについても、である。