« 舞妓Haaaan!!! | メイン | vsコスタリカ(U20WC) »

2007年06月29日

●灰色の6月

ここ数週間、とても人には話せないダメダメな生活を送ってしまったのだった。
どのくらいダメだったかというと、例えば月野くんご贔屓の「相棒」のDVDシリーズ(たぶん20巻くらい)を全巻見てしまった。このTVドラマは当初、右京さんの「傲慢だけどちょっとおマヌケ」という感じのキャラから、かなり早い段階で「慇懃無礼でパーフェクト」キャラに方向修正したのが、成功の一因であるように思う。

それはともかく。
昨日あたりからようやく「ひきこもり」状態から恢復しつつあるのだけど、そもそも「ひきこもり」を維持するには、かなりの基礎体力が必要なのである。オッサンにはとても無理。

・・・というか、ここ数年、社会思想的に(?)真剣に議論されている「ひきこもり」という問題について、ボクがどうも生理的に(倫理的にではなく!)関心が持てないのは、それが本質的に「青年」の課題だからではないか、という気がするからなのである。
これは勝手な憶測なので反論があればすぐに撤回してもいいけど、「ひきこもり」の無意識(?)には、おそらく中老年期にはありえない「不死」に対する一種の「楽天」的な確信があって、おそらくその「無為」という永遠に対する確信が彼らの「生の様式」を可能にしているのではないか。
ただし「中老年期」というのは生物的な年齢ではなく、むしろダンテのいう「人生の半ば」を自覚してしまって以降の生、ということである。
(もちろんそれが35歳なのか、60歳なのかはまったく関係がない、ロラン・バルトがいうように。)

自分の人生の時間が確実に「有限」であると自覚した瞬間から、ヒトは端的に老いはじめる。
その刻一刻とした、薄明のような切迫から何とかして足掻こうとするのだが、実際にはすでに崖から飛び降りてしまったヒトが懸命に空中で走ろうとするのと、それは似ている。
あるいはすでに離陸してしまった飛行機のような。(ゴダール「地上にひとつの場所を」)
「ひきこもり」のヒトは、おそらく自己の「生の様式」を「無為」の苦痛と共に「死」の擬態のように感じているのかもしれないが、にもかかわらずそれは「青春」の、「生」の潜勢力の発露だと考えるべきなのだ。
すでに死んでいるのは、空中を走ろうとしているヒトの「労働」のほうである。

(それに対して青春の「無為」は倫理的に一切非難されるべき(無)行為ではない。というか、考えてみれば「青春」はその定義として「無為」そのものなのである。「ひきこもり」のヒトは、他人から何をといわれようと、断固として己の「欲望」を維持すべきだろう。もっとも維持しようとした瞬間、それもまた一種の「労働」と化すのかも知れないが。)