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2007年05月16日

●リアリズムという「技術」――ゴダール論考補遺

ゴダールを、ゴダール自身の言葉のみを典拠に考えてみること。
そんな意図から書かれた「リアリズムという「信仰」――ゴダール『映画史』をめぐって」(『述-1』所収)には、それによってボクなりに得られた認識と、そこでは語りきれなかった主題とがもちろん多くあって、それについてここで少しだけ補足しておくのも無駄ではないような気がする。

1.ゴダールとフロイト
フロイト抜きに「投射」を語るという、そんな野蛮な言説であっても、意外と読者は驚いてくれないらしいのである(というか、呆れられたのだろうか?)
ともかく本論中で、ボクは(ただ一度の例外を除いて)フロイトの名前は敢えて挙げなかったのだった。
映画と精神分析的な「投射」の関係を論じたテキストとしては、とりあえず松浦寿輝『平面論』(岩波書店)がすぐに思い出される。
しかし、そこで論じられている「「他所性」を隠蔽し、偽のナルシシズムを捏造するこの錯覚の氏脚気こそ、「投射」機制の根幹をなす」という松浦の視点は、少なくともゴダール的な「投射」は馴染まないと思う。

2.ゴダールとベルクソン
じつのところ、論考を執筆しながらボクがたえず想起していたのは『物質と記憶』のベルクソンだった。論証抜きで断言してしまうと、知覚は行動である、というベルグソン的な認識こそ、むしろゴダールの「投射」に相応しいものだと思う。
さらに言えば、知覚とは「純粋知覚」と「純粋記憶」の混合=「モンタージュ」に他ならない・・・。

3.ゴダールとベンヤミン
ゴダールのモンタージュ概念と、シュルレアリズムの手法との類似はしばしば語られるが、ベンヤミンは「シュルレアリズム」というエッセーで「中世の実在論哲学の根底には詩的な経験がある」旨指摘している。
論考のタイトルは、このスコラ的なリアリズムを含意しているのである。

4.ゴダールとリアリズム
中井正一の「ニュース映画」に対する評価というのが、じつは意外とゴダールに近しかったりするのである。
もちろんそれは「ロッセリーニ」という共通項があるせいなんだけど、いずれにせよ中井とゴダールの「映画」という認識には「民衆(大衆)」という概念が必須である。
ただし、ドゥルーズのいう「民衆の不在」という視点の有無が両者を隔てているのも事実であり、もし今後ゴダールを論じる機会があれば、このテーマについて是非考えてみたいと思う。