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2007年03月15日

●「深夜劇場へようこそ」終了、vsマレーシア(U22)

先週末、ふと気がつくとNHK・BSの「深夜劇場へようこそ」が終わってしまった。ボクのように演劇に対してうすい、うす~い興味しかない人間にとっては、小劇場関連の情報を知ることのできる貴重な番組だったので残念。特に冒頭30分の演劇人インタビューのファンだったので、欠かさず見ていた。
「BSマンガ夜話」にもちょっと感じたのだけど、制作現場にいる人同士が向かい合った緊張感と批評性の高い対話というのには、何にせよ魅力的である。それは「ゲンバ」の声と称する作家のモノローグ――主に自己PRを目的とした――とはちょっと違うのだが、しかし、もしかしてそうした対話的批評性というのは、今の世の中的にはもはや「お呼びでない」感じなのだろうか?

アウエーでのvsマレーシア(U22)は2-1の辛勝。今回の反町監督は平山1トップを選択。ピッチ状況をはじめエクスキューズはいろいろあれども、結局それが機能したようには思えない。
こうしてみると、反町監督のテスト(とボクが想像しているもの)は、単なる最適なシステムの模索ではなく、どうやら「平山を使うため」の模索ではないのか、という疑惑が浮かんでくる。

オシム監督はピッチという真っ白なキャンバス上に、思いのままに自分のイメージを創造できるタイプの監督である。
一方で、オシムを敬愛するという反町監督は、平山という「個の力」を基準点に置かないと、ピッチ上の秩序を構築できないタイプなのかもしれない。絶頂期のロナウドを称して「戦術はロナウド」と揶揄されたクラブがあった(インテルだったけ)が、つまりは「個の力」という美称に暗黙のうちに依存しているのと同義である。
(「自己責任」という発言が、つねに発言者の責任回避のために利用されるのと、これは似ている)

オシム監督はペルー戦に高原、中村俊輔、中田を招集するらしいが、彼らをチームのアクセントとは考えても、代替不可能な絶対的プレーヤーとは考えていないだろう。あくまでチームをより高次元で機能させるための駒として、ということである。そこには合理的であると同時に冒険的な、自分自身のブレのない確固とした「構想」がベースにあるのだと思う。

オシム監督にあって反町監督(及び歴代の日本人の代表監督)にないもの、結局それは、カントのいわゆる「イマジネーション(構想力)」ではないか、という気がする。例えば芸術家と技術者、政治家と官僚、経営者と会社員の違いのような。しばしば後者は、「悟性」がそれだけで機能しうると錯覚しているだけなのだ。

しかし、本日のTV解説者も含む大部分の日本人は、この「依存」を「依存」とも考えず(だからトルシエのいう「スターシステム」がつねに要請される)、「リスク」を負う戦いが不得手である。その根本原因はサッカーに対する「構想力」の欠如を「欠如」とすら感じていない、という欠落があるからではないか。