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2007年02月28日

●黒沢清『叫』

vs香港、試合当初からアメリカとの親善試合と同じ3トップ。反町監督の強気にやや驚く。解説の山本氏はしきりと「15分までに1点」と強調していたが、たぶんそういう意図なのだろう。で、カレン-平山の連携で先制点という、狙いどおりの得点だった。でも、機能したように見えたのは最初だけ、というのも、まあ予想どおり。後半いきなり家長投入というのも、リードしている側が普通に考えると早すぎるが、しかし今回のゲームプランから考えると理解できる。バランスが良くなったのだからリズムがよくなって2点追加という結果は、当然である。
さあれ、2次予選はチームを作る過程なので、システムもコンビネーションも至らないところはたくさんあるけど、まだアツくなる段階ではない。反町監督がいろいろ試していくのを(策士考えすぎ、という気もするが)サポも温かい眼で見ていればいいんじゃないかと思う。

(以下、映画ネタばれあり)

同僚の吉岡(役所広司)と連絡がつかなくなったのか、あるいは事件に捲き込まれたという直感が働いたのだろう、刑事(伊原剛志)は彼のアパートを訪ねる。
すでに吉岡は殺害した妻(小西真奈美)の遺骨を収集して、家を出た後である。
刑事は、荒廃した部屋で事件の痕跡をあてもなく探っている。
そこには吉岡が妻を殺害した盥が残されている。

不意に、異様な事件が起きる。
刑事が、赤い服を着た女の幽霊(葉月玲於奈)によって、遺体も残さず物理的に「抹消」されてしまうのである。

このシーンは『叫』という映画の特異点を形づくっている。
少なくとも、今までの事件はすべて人間による殺人だった。幽霊に殺意を「感染」されたとはいえ、幽霊自身が直接手を下した形跡はない。
犯人たちは「全部なしにする」ため、と殺害の動機を語るのだが、むろん「殺害」という現実が残る以上、そんなことは不可能なのである。
だが、この刑事の「抹消」は、それまでの人間による殺害と異なり、文字どおり「全部なしにする」行為ではなかったか。

(そんな超常的な殺害が許されるなら、幽霊も「感染」なんて回りくどい手段は使わず、最初から湾岸の廃虚一帯(『劇場版パトレイバー』ふうな)の住人関係者をさっさと「抹消」しちゃえばよかったのに…、などというのは艶消しな感想だけど)

確信犯的なルール違反、と言ってもいいのかもしれないけど、むしろ興味深いのは、この刑事のキャラクターが、吉岡とは対照的に、典型的な「法の番人」として描かれてきた点にある。
おそらく刑事は「抹消」されなければ、やがて殺害の事実を突き止めただろうし、吉岡の妻殺しは警察の捜査と司法の手で正規に裁かれることになっただろう。
しかし、幽霊はおそらくそれを望まなかったのでる。

「私は死にました。だからみんなも死んでください」という幽霊の「叫」と共に、吉岡は妻と幽霊の遺骨を旅行鞄につめて、どことも知れず姿を消す。
おそらく吉岡は、彼女たちの埋葬のためにでかけたのではない。
むしろ幽霊の意思にそって、幽霊の復讐(ルサンチマン)に世界を「感染」させるために、まるでテロリストのように遺骨を世界じゅうに「散種」してまわる吉岡の未来を想像してみよう。
幽霊が望むのは、生きとし生けるものすべてに対する「復讐」であり、単なる「法の裁き」ではないのだ。

「法」とは「法(秩序)」の維持のために存在するという自己言及的な体制であり、(しばしば錯覚されるように)単なる復讐の手段ではない。
言い換えれば、「法」はただひたすら「法」の内部と外部とを画定するだけであって、すでに「法の外」にある幽霊にとって「法」は無意味である。
むしろ幽霊にとって、復讐とは「法」も含む「みんな」=世界全体への復讐なのであり、この世界の「法」の代表者である刑事の殺害こそ、彼女の真の目的であった、とさえ思えるのである。

黒沢清監督は「これまで幽霊が出てくる映画を何本も作ってきましたが、幽霊だからという理由で人間扱いしてきませんでした。でもふっと「幽霊も人間だった」と思い当たりました。…(『叫』は)恐くなくてもいいから人間扱いした幽霊を描きたかった」とインタビューで語っている。http://www.cs-tv.net/blog/001557.html

幽霊は不在なのではない。
幽霊は不在なのではなく、生きているのか死んでいるのかしかとはわからないが、しかし今ここに厳然として実在する。
実在するにもかかわらず、「法」が彼女を認識することはない。
ただ「法」の内部に(意図されたか否かを問わず)認識されないが故に、彼女は「不在」とされるだけである。
幽霊の復讐とは、ただ「法」のこの無能力に対してなのだ。

『叫』は、「法」への絶望的な不信と拒否において、「9・11」以降の臨界にある。
「法」をめぐる臨界において、『叫』と『それでもボクはやってない』は遠くから向き合っているのだ。