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2007年01月17日

●蓮實重彦『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』

年末のある日、不意にこれまで体験したことのない、踞るような胸痛に襲われた。
その時、ピーンと頭に浮かんだのが「心筋梗塞?」という文字だった。
以来、妙に胸のあたりが息苦しい感じに取り憑かれて仕方ない。
不安なので、とうとう明日、人間ドッグで検査を受けることにしたのだ。
フリーランスも同様の零細企業の経営者の境涯なんて、長い入院でもしようものなら、わりとあっという間に「ワーキングプア」、いやたんなる「プア」に転落である。
気のせいだといいんだけど、でも今年は厄年で、どの雑誌の占いを読んでも、今年は運勢サイアクらしいのである・・・。

初期(70年代)の蓮實重彦氏の「表層」をキーワードとしたテキストの構図は、今から読み返すとハイデガーによる「存在者と存在の存在論的差異」という例のアレに、あっけにとられるほど忠実である。
(ハイデガーの「存在」がほぼ蓮實氏における「批評」と考えていい)
それらはもっぱら「テーマ論」的な方法論に貫かれていたのだが、80年代以降、著者の関心はいったん「説話論的」と称する一種の「ナラトロジー」(への批判?)に向かったように思える。
さらに90年代の「総長」時代(笑)を挟んで批評に復帰した著者が、改めて「フィクション」という概念を取り上げたのが、この『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)に収められた「『赤』の誘惑をめぐって」ということになるのだろう。
しかも、かつてであれば「荒唐無稽」(=無根拠性)の同義語であった「フィクション」が、信じがたいことに、ここでは「平和」の同義語と断言されてさえいるのである。
・・・と、ここで驚いていたら、著者の思う壺ってやつなんだけど。

以下は単なる仮説(というかかなり無責任な放言だが、それを言い出すとココに書き散らすメモや覚書の類はすべてそうであるのだから仕方がない)。
仮に「表層」を実在的なもの、「説話論(的)」を可能的なものをめぐる概念と見なすのなら、「表象の奈落」は端的に(というかむしろ露骨なまでに)《潜在的なもの》を意味する。
実のところ、蓮實重彦氏における概念構成において、これまで一貫して徹底的に欠けていたのが、この「潜在性」であったように思う。
その欠落は、彼が「歴史」を論じる場合に端的に表れている。
それはベンヤミン的な「潜在性」を一切欠いていたが故に、かくも容易にアカデミズム化されたのである。
しかもそれは「批評」そのものの衰弱とも無縁ではない、ということにすら「陰険な」(とフーコーの「マネ論」の語彙を真似て形容したいのだが)この著者はもちろん自覚的なのだろう。

「可能世界」的な視点からフィクションを論じようとする者のほとんどは、ある理論的な前提を共有している。すでに述べたことだが、それはフレーゲ=ラッセル流の分析哲学の伝統における「存在」概念への不信である。その場合、「存在」とは、われわれが生きているこの「現実世界」においてのみ生起するものを意味しているが、その「単一世界」的な現実観を複数化せんとして、「可能世界」論者は「作品世界」という概念を提起するのである。(p.277)

従って、近刊の『フィクション論序説』(またしても「序説」!)は、「潜在的なもの」が「組織化(現勢化)」する論理が追われることになるのであろう、というのが、まだ雑誌掲載テキストすら読んでいないながら
の勝手な推測なのだが、しかしそれは期待されるようなものなのだろうか?
この書物を読む限り「なんかちょっと違うゾ・・・」という予感も横切るのだが、まあ、それについては次を読んでからに。