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2007年01月10日

●宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』

にょにょのために昨年末からいろいろ準備してきた気がするのだけど、年始に「特命係長只野仁祭り」をコンプリートしてしまってからは、何だかすべてがどーでもよくなってしまったのだ。
あと衝撃だったのは、中田有紀おねーさまが目当てで見た教育テレビの「ジュークボックス英会話」に登場していた佐藤良明氏が、「さんまのからくりTV」に出てくるホネホネロックの人そっくりだったことくらいである。以上、正月日記終わり。
以下、感想文。

いわゆる「80年代論」の代表的な著作というと、やはり大塚英志氏の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書)になるのだろうが、『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)でもこれを批判的な参照先として何度も取り上げている。
とはいえ『講義』の視野は、演劇人として「ピテカン」周辺で活動していた個人的な体験に基づく「自分語り」として、同時代にマンガ雑誌の編集者だった『精神史』のそれと同じく、そこからくるある種の偏向と欠落を免れてはいない。
もちろん両者とも「偏向と欠落」は承知の上で、80年代の文化史的な証言を意図しているのだけれど。

ボクにとって個人的な異和があったのは、どちらにも「超時空要塞マクロス」についての記述が一行もなかったことだった。
(「マクロス」も「オタク」という呼称の語源の一つ、と見なされているはずだ)
正確には、『精神史』の本文関連年表に劇場版(84年7月)についての記載はあるが、ただしボクにとって愛着があったのは、土曜午後2時頃に放映されていたTVシリーズのほうだったかもしれない。
(当時学生だったボクたちは、自宅に帰ると放送時間に間に合わないので、学校近くの電器屋に立ち寄ってはた迷惑も顧みずテレビ前を占領していた。)

周知のように「マクロス」TVシリーズにあって劇場版にないのは、ヒロインである歌手リン・ミンメイが荒廃した地球をドサまわりする、という後半のエピソードである。
主人公ヒカルの暮らす町がそっくり宇宙戦艦に移り変わり異星人と地球の運命をかけて闘う、というプロットは、のちの「セカイ系」の嚆矢ともいうべきだが、決戦後のミンメイの“現実”描写には、明白にプロット自体に対する自己批評的な“悪意”が込められていた。
劇場版では、絵やストーリーの完成度が格段に向上したかわりに、この“悪意=批評性”が削除(抑圧)されている。
「オタク」の方向性、すなわち「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」や「エヴァンゲリオン」で演じられた「現実回帰(とその不可能性)」という症候は、おおむねこの時期に確定された。

(全然関係ないかも知れないが、たしか最終回のエンディングに流れていた飯島真理Vrの「ランナー」が、ボクはとても好きだった。そのアコースティックな雰囲気が、どこか初期のトレイシー・ソーンを連想させた。)

 *

「80年代に入ったとき、ピテカントロプス・エレクトスに代表される人たちが持っていた〈批評性〉とはいったいなんだったか、そしてそれが現在にどういう道筋を創ってくれているか」(『講義』p409)

とはいえ、「批評性」の根拠が「サブカル」にあって「オタク」にはない、とする『講義』のこうした主張は、ボクにはやはり牽強付会に思える。
むしろ「かっこよさ」というタームを(グラムシとすが秀美氏に由来する)「文化的ヘゲモニー」という概念と同一視することで、その政治性を希薄化する(「かっこよさ」を政治化するのでなく!)というスタイルそのものが“80年代的な非政治的感性”を体現している、という印象を強く受けるのだ。
(もちろん「ヒップ」=「文化的ヘゲモニー」なら『講義』の主張は理解しうる。というか、「かっこいい」という日本語を「ヒップ」という輸入言語に暗黙のうちに翻訳し、「かっこいい(=ヒップ)=文化的ヘゲモニー」とする、こうした輸入文化的な概念操作そのものに、そもそも「批評性」が欠如しているのではないか。)
この「非政治性」こそ、「オタク」と「サブカル」が暗黙のうちに共有してきた感性にほかならない。

「マクロス」が企画・製作されたのは80年代初頭、いわゆる「反核運動」が大きく展開された時期とじつは重なっている。
当時、ボクは「マクロス」の脚本家である大野木寛氏と個人的に面識があったのだが、彼や河森正治氏など「マクロス」の中心的なスタッフは、「塾高」と呼ばれる慶應大学の付属校のSF研の仲間で、いずれも東京近郊の比較的裕福な中産階級の子弟だった(大野木氏は都内の開業医の息子さんである)。
もちろん彼らが政治・社会運動にコミットした形跡はまったくないが、だが、むしろそれ故にこそ「日常」と「戦争」を短絡するというプロットには、その当時の平均的な青少年の「(大文字の)歴史からの疎外感」が逆説的に刻印されていたように思う。

それは、「セカイ系」という概念が「9・11」の時期と重なって浮上してきたことと、どこか相似した事態に思える。